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森友ゆうきの実話|憧れの店長が、部下になった日——26歳マネージャーの過ち
第1章|はじまりの店、武蔵小金井
こんにちは!森友ゆうきです。
私は今でこそ、店舗マネジメントや人材育成に関わる仕事をしていますが、人生のスタートは「カラオケ店のアルバイト」でした。
それも、当時の自分にとっては“ちょっとしたバイト”のつもりが、やがて自分の人生そのものを大きく変える原点になったのです。
21歳のとき、私はカラオケルーム歌広場・武蔵小金井店の早番オープニングスタッフとして働き始めました。
大学には在籍していましたが、「なんとなく起業したい」「普通のサラリーマンにはなりたくない」——そんな漠然とした気持ちを抱えていました。
歌広場は、昼間は1時間180円でドリンク付き、夜は1時間680円でサワーカクテル飲み放題という破格の価格設定。
当時のカラオケといえば、1時間で2000円〜3000円、ドリンク別が当たり前だった時代です。高校生を中心に話題を呼び、土日は盛況になることが多い業態でした。
……ところが、オープン当時の武蔵小金井店は、オープン当初まったくお客さんが来ませんでした。
エリアマネージャーの目はつねに怒りで充血していて、私たちアルバイトは軍隊のように一列に並ばされ、こう叱責されました。
「今日の目標売上は◯◯万円!いかなかったら許さない!わかったか!」
「はいっ!」
まるで気合いで売上を作る時代。
「ビラ配ってきます!」と駅前に走るスタッフたちは、どでかい声で「30分無料券でーす!」と叫び続けました。
数字だけを追いかける空気。正直、しんどい毎日でした。
でも——その中に、まったく違う“空気”を放つ人がいたのです。
第2章|“数字じゃない”と言ってくれた店長
私が“この人の下で働きたい”と心から思ったのは、その店長と出会ってからです。
30代後半、元バンドマンという経歴。見た目は少し破天荒で、言葉も荒っぽいところがある。でもその人は、朝礼でこんなことを言いました。
「いいか、エリアマネージャーはああやって厳しく言ってくる。俺も言われてる。でもな、絶対にお前らを守る。売れなくても、誰ひとりクビにはしない」
「ビラを配ってもお客さんが来なくても、もらってもらえなくても下を向くな。俺たちはいつか気づかれる。お客さんがこの店に押し寄せてくる日が、必ず来る」
「今の1万円、2万円の売上なんてどうでもいい。俺が見てるのは、未来の1000万、1億だ」
…そのとき、心が震えました。
“この人、かっこいい”と、素直に思ったんです。
数字じゃなく、自分たちの可能性を見てくれている。
未来を信じて、今を守ってくれている。
その背中に、私は強烈な“リーダーシップ”を感じました。
そんな店長がある日、こう言ってくれたのです。
「森友、お前がこの店の早番を引っ張れ。加東とか、吉野がお前を慕ってるぞ」
私は言葉通り、馬車馬のように働きました。ビラを配り、掃除をし、受付をこなし、空いた時間にまたビラを配る。
1ヶ月が経ったある土曜日、午後3時。
店が、満室になったのです。
その日、店中が歓声で湧きました。
店長は「みんなよくやったな!」とジュースを奢ってくれました。
翌週も、土日は満室が続きました。
あの時、みんなで泣き笑いしたあの瞬間。
私は心の底から、「この仕事が好きだ」と思いました。
そして私は決めたのです。
この人のように働きたい。
この場所で上を目指したい。
だから、私は——
大学を辞めて、歌広場を運営する㈱クリアックスに入社する決断をしました。
第3章|ライバル・山本君との日々
大学を3年で中退し、正式に歌広場へ入社した私は、ほどなくして“もうひとりの自分”と出会います。
山本君——同い年で、同じく武蔵小金井店の店長に憧れて入社した男。
爽やかで清潔感があり、遅番を担当する好青年。
彼とは最初から、無言のライバル関係でした。
実は私たちは、アルバイト時代から互いに意識し合っていたのです。
当時の歌広場には、こんな制度がありました。
- リーダーに昇格すると、名札がピンク色になる
- 実力に応じて時給が50円ずつ上がる
- 最高ランクになると、星マークが名札につく
このピンクの名札と星マークは、いわば“認められた証”。
アルバイトであっても「リーダーである」と一目でわかるシンボルでした。
入社前、私も山本君もすでに「星3つ」の状態で、アルバイトリーダーとしての自負を持っていました。
この昇格制度は、当時の私たちにとって人生そのものに影響を与えるようなものでした。
その後、私たちはそろって社員登用され、なぜか同じ「三鷹店」オープンスタッフに配属。
私が早番、山本君が遅番。
予算を早番と遅番で分けて競い合う構造の中、どちらが“稼げるシフト”か、数字でぶつかる毎日でした。
競いながらも、山本君とは高め合える関係でした。
ただ、「負けたくない」という気持ちは、私の中でどんどん膨らんでいったのを覚えています。
1年後、私は西武線沿線にある10部屋の小型店で、最速で店長就任を果たしました。
山本君よりも早かった。
“勝った”と、正直思いました。
その後、国立店を経て、私は八王子店の店長に就任。
山本君もまた1号店の店長に就きました。
月間売上は、1号店が1500万円、私の3号店が2800万円。
大きなゲームセンターの上階という立地の強みもありましたが、自分が“エース店”を任されているという実感がありました。
1年後、私は八王子3店舗の統括マネージャーに昇格。
一方、あの憧れの店長は、さらに本部で第一営業部の部長に昇進していました。
この頃、私は「理想の背中」に少しずつ、追いついているような気がしていたのです。
でも——このあと、私は忘れてはいけない“あの背中”を見失っていきます。
第4章|闘う池袋店長時代
当時の東池袋店は移転 池袋東口店
西武線沿線での店長経験を経た私に、ある日「東池袋店店長」の内示が届きました。
——ここから、私の店長人生は“闘い”に突入します。
当時の池袋といえば、カラーギャングと呼ばれる若者集団が闊歩し、赤・白・黄色・黒といった色を身にまとった軍団が街を占拠する、治安の不安定なエリアでした。
長瀬智也主演の池袋ウエストゲートパークというドラマにもなっている、あの池袋です。
そんな場所にある歌広場・東池袋店は、新宿歌舞伎町店に次ぐ全国2番目の売上店舗。私はそれを任されたのです。
気合いが入らないわけがありません。
現地視察に向かったその日、私は確信しました。
「この店舗は、店前の対策さえできれば絶対に売れる。」
なぜなら——
店舗前に他店のキャッチが3人も立っていたのです。
カラオケ館、そして名の知れないカラオケ屋。
私は、キャッチの人たちと話しても意味がないと思い、直接その店舗へ乗り込みました。
対応してくれたのは、その競合店の店長。案外話の分かる人物で、謝罪してくれました。
今思えば、私はきっと「怖かった」のでしょう。
髪はオールバック、スーツはジョルジオ・アルマーニ。
成り上がりたいという気持ちと、数字への執念が、私を“武装”させていたのです。
その後、店舗前から競合のキャッチは姿を消しました。
ところが状況を知らない新人キャッチが店前に再び現れると、私は社員総出で、彼らの店舗前に張り付いて“報復”しました。
1店舗ずつ、徹底的に・・
今になって思います。
当時の私は、
怖がらせることが、正義だと本気で思っていたのかもしれません。
ただ、その結果、高校生のアルバイトが安心してビラ配りできるようになり、店舗前の治安も改善しました。
環境を守ることはできた。でも、代わりに何かを失っていたのかもしれません。
売上は上がり続け、新記録を連発。
そして私は、26歳にしてエリアマネージャー就任の声をかけられます。
第一営業部は、これまで部長・次長の2名体制でした。
それが刷新され、「エリアマネージャー1名制」となり、そこに選ばれたのです。
東京のど真ん中、新宿地区から代々木・新大久保、中央線沿線の吉祥寺、国分寺、八王子まで14店舗の管轄です。
40代の歴戦マネージャーが並ぶ中、26歳の若手が登用される。
社内でも異例の抜擢でした。
そして——
あの店長が、私のエリアに“部下”として配属されたのです。
第5章|あの人が、部下になった
エリアマネージャーとしての新しい役割に気持ちを引き締めていた矢先、信じられない人事が発表されました。
——あの店長が、私のエリアに異動してくる。
部長から三鷹店の店長に就任。降格人事でした。
かつての自分を変えてくれた人。
数字よりも“人”を大切にする姿勢に憧れ、大学を辞めてまで入社を決めた存在。
その人が今、自分の部下になる——
正直、混乱しました。
それ以上に、「嫌な予感」しかなかったのです。
おそらく、会社としては“お目付役”のような意味合いもあったのでしょう。
でも私はもう、自分流の成功法則を持っていた。
売上を伸ばし、現場を仕組み化し、成果を出す。
そうして26歳で抜擢された自負と誇りがあった。
しかしその人は、私の指示をやってくれなかった。
売上速報のコメントにも、現場改善の依頼にも、どこか他人事のような反応。エリアミーティングの際も、漫画をノートに書いて横の店長とクスクス笑ってる。
当時、社内ではまだパソコンが普及しておらず、主な店舗との情報伝達は電話とFAX。
週1回、エリア内全店舗へ向けたエリアマネージャーコメント付きの売上速報FAXを流していました。
前週の三鷹店の売上が50%台・・
その日、私はついに、抑えていた怒りが爆発してしまいました。
——エリア全店が読むFAXに、こう書き殴ったのです。
「いいかげんにしてください!!」
数時間後、夜の遅番で出勤してきた彼から、電話がかかってきました。
受話器の向こうから聞こえたのは、かつて聞いたことのない叫び声でした。
「それが……エリアマネージャーのすることか!!」
「みんな見てるんだぞ!お前、わかってるのか!?」
声は涙混じりで震えていて、
怒りと悲しみと、悔しさが混ざったような鳴き声でした。
電話越しに聞こえる、店舗で荒れ狂う物音。
誰かに怒鳴る声、自分に叫ぶ声。
私は、黙っていました。
……そして、たった一言だけ、こう返しました。
「私が言うことやってくれないから、そうなるんですよ」
その瞬間、何かが完全に壊れたのを感じました。
かつて、守ってくれたあの人を。
今、私は追い詰めてしまった。
第6章|壊したのは、誰か
彼からの怒声が電話越しに消えた後、私はただ呆然と立ち尽くしていました。
数分前まで「怒り」だった感情は、もうそこにはありません。
代わりにあったのは、何とも言えない虚無と、深い後悔でした。
「これでよかったのか?」
答えが見えないまま、私は営業本部長に連絡を入れました。
事の経緯を説明し、そして——謝罪をしました。
本部長は冷静に聞き、ひとことだけこう言いました。
「よく言ったな。……でも、やり方を間違えたな」
それが、胸に突き刺さりました。
私は、「店長としての理想」を誰よりも近くで見てきた人間でした。
“守るリーダー”の背中に憧れて、この世界に飛び込んだはずでした。
数字だけで人を動かす上司になりたいなんて、一度も思ったことはなかったはずなのに——
気がつけば、自分がその真逆の存在になっていたのです。
私は彼を守れなかった。
むしろ、人前で傷つけてしまった。
周囲の店舗やスタッフからは、「森友さん、よくやった」と言われました。
でも、心はまったく晴れませんでした。
「誰よりも人を守るはずの自分が、
一番大事な人を、追い込んでしまった。」
それに気づいたとき、本当に初めて、
——私は“成長”の意味を考えるようになったのです。
第7章|店長とは、何のためにいるのか
あの事件から月日が経ち、私は今、講師という立場で店長たちと向き合っています。
現場を見続けてきたからこそ思うのです。
店長というのは、数字を出すために存在しているのではない。
もちろん、売上や利益は必要です。
でもそれは、“人”が動いてこそ生まれるもの。
人が動くには、信頼と感情と意義が必要です。
私はあのとき、売上という正義を振りかざし、
かつて憧れた店長を、組織の中で晒し者にしてしまいました。
自分の中にある「正しさ」だけを信じて、
人を動かそうとしてしまったのです。
でも本当は——
「今日も来てくれてありがとう」
「君がいてくれると助かるよ」
「未来を信じて、今日をやろう」
そんな言葉のほうが、人を動かすことを私は知っていたはずでした。
それを誰よりも教えてくれたのが、あの店長だった。
リーダーシップとは、“上から指示すること”ではない。
人の未来を信じて、共に歩むこと。
だから私は今、どんなに現場が苦しくても、
「店長は孤独ではない」と伝えたいのです。
もし、あの頃の自分に一言かけられるとしたら——
「お前が一番、忘れてるぞ。あの人の背中を。」
そう言いたい。
この記事が、店長として悩み、迷い、怒り、喜びながら現場に立つあなたにとって、
少しでも「考えるきっかけ」となれたなら、それが私の本望です。
店長は、数字を超えて、人の人生を変えることができる。
それを私は、身をもって体験しました。
——そして今、あの日の過ちを抱えたまま、前を向いて進んでいきます。
森友が講師になる物語
私が“人前で話せなくなった”のは、今から約10年前、40歳を過ぎた頃のことでした。